- 2021.07.27 UP
予土線で恩師と再会
朝6時。予土線はこれから通学ラッシュを迎える時間だ。まだ霧がかかった山里の中をガタンガタンと走り行く列車は、季節を問わず幻想的でお気に入りの予土線時間である。
そんな予土線を早起きついでに撮影しようと車を走らせたある朝のこと。
松野町の出目駅から吉野生駅まで、車でほぼ並走しながら予土線を走る列車を撮影していた。吉野生駅では、上り列車と下り列車が交換となるため、そこで撮影を終えようと決めていた。駅ではもう出ようかとする列車に向かって高校生が走って行く。「おばあちゃん、いってきます」と勢いよく駅に駆けていき、ギリギリセーフで列車に乗り込んだ。パーッと汽笛が鳴り、すぐさま列車は宇和島方面に向けて動き出した。わたしはそのおばあちゃんに「お孫さん、ぎりぎりでしたね」と声をかけると、「駅に列車が止まるのがうちの家から見えるくらいやけん、毎朝あの子はぎりぎりに出るんよ。」とにこやかに話してくれた。そのおばあちゃん、よーくみるとどこかで見た顔である。すると、おばあちゃんもわたしの顔をじーと見て、こう言った。「あなた近永小学校やった?山下さんじゃない??」と。「あ、もしかして音楽の・・アリマ先生ですか」「いやあーなつかしい」。私たちは声を合わせて笑った。まさに28年ぶりの再会であった。
アリマ先生は、私が小学6年生のときに近永小学校へ赴任してきた音楽の先生だ。これまで音楽の授業は、クラシックを聴きながら昼寝ができるかっこうの休憩授業だったのに、アリマ先生はそうではなかった。昼寝なんぞもってのほか、授業あいだじゅう油断も隙もないのだ。まずは、始業の礼で「お願いします」というあいさつをするのだが、元気がない礼をしようものなら、「はい、もう一回!」とやり直しである。私たちはぴりっとした空気を感じ取り、改めて大きな声で元気よく「お願いします!!!」と言った。そしてそのあと、机とイスを教室の隅に寄せて、広くなった音楽室いっぱいに輪を作る。クラス全員が手を繋ぎ、マイムマイムを踊りなさいと言うのだ。いわゆるフォークダンスで、当時の私は授業中に踊るなど考えもしなかった。音楽の時間は、音楽を聴くか、リコーダーを吹くかくらいのものだと思っていたのだから、それはもうアクティブであった。なんとマイムマイムの後は、ジェンカ。一列に並んで前の人の肩に手を乗せて踊るのだ。私なんてしぶしぶ踊ってはいたものの、小学6年というのは親や先生に反抗することがちょっとかっこいいと思い始める年頃(?)で、やんちゃだったクラスメイトの男の子が「かっこわるいから踊りたくない」とか「かったるい」などと口にした時には、ほっぺたをバチーンとたたかれ、「これは授業です。勝手なことをするのなら出て行きなさい」とアリマ先生は一喝した。小学生相手にいつだって本気の先生だった。
アリマ先生の授業は毎回どきどきの連続だったが、中でも一番どきどきしたのは、歌のテストだ。これまでは「3人1組で」とか、「グループで」とか伴奏に合わせて課題曲を歌うというスタイルだったのだが、アリマ先生は違った。なんと1人ずつ全員の前で歌わせるのだ。中には上手な子もいて、拍手喝采である。「おお」と声も上がる。しかし、わたしは1人で歌を歌うのなんて緊張の極みである。声は震えるわ、きっと歌詞だって間違うわ、恥さらしの何物でもない。クラスメイト全員の目が釘付けになり、耳はダンボのように大きくこちらを向いているにちがいない。(これは勝手な被害妄想でしかなかったが・・)とにかく心臓は口から飛びでそうなほど緊張していた。「ああ、もう音楽なんて全然楽しくない!」と心の中で叫びながら、声に出せず憂鬱な気分だった。そして、ついに私の番がやってくる。「はい、次の人前に来て歌って~」と優しい口調でテストは始まった。案の定、私の声は上ずって、いつものようには歌えない。上手に歌おうとすればするほど、なんだか恥ずかしくなり歌えなくなってしまった。すると、先生は「上手下手を聞くのではないのよ、はいもう一回」と伴奏を始めた。そうか、上手下手ではないのなら、とりあえず歌ってやりすごしてしまえ、と腹をくくった。どのみち、やらないといけないのならば、上手下手を気にしないでやるだけやってしまえばいいのだ。歌いきってしまえば、こっちのもんだ。先生は「はい、OK」とからっとテストは終わり。「ビブラートが良かったわよ」なんて、良いところだけを一言。「はい、次~」とこんな調子であっさりとしたものだった。
そして、さらに革命的だったのは、音楽のジャンルの幅である。先生は教科書に載っている音楽以外にもたくさんの洋楽を教えてくれた。ビートルズやカーペンターズに出会ったのは先生が聞かせてくれたのがきっかけだった。私はまちがいなくこのとき出会った洋楽の数々によって、その先の人生の扉が次々と開けていったと実感している。6年生が終わる頃、町内の小学校では合同演奏会を開くことになっていた。うちの学校の課題曲は、ビートルズの「Hey Judo(ヘイ・ジュード)」だった。先生はそれぞれ私たちの楽器パートを分けていった。私はピアニカを担当することになった。私の他にも10人ほどいて、曲のメロディを覚えて演奏するのだ。ところが私は鍵盤と相性が悪く、みんなと比べてきわめてヘタクソだった。毎日練習は放課後に体育館に集まり、各パートで練習した後、全員で音を合わせるのだが、そのときも私だけトチッてしまう。耳の良い先生は「はい、あなた違うわよ」と的確にまちがいを指摘された。息を吹きながら鍵盤を押さえるなんて、高等すぎる芸当である。わたしは、おなかがいたいとウソをついて保健室に行くようになり、だんだん練習をさぼるようになった。他のメンバーはどんどんうまくなっていき、まさに悪循環である。保健室の先生は「練習せんと上手にならんよ」と言ったが、私はそんな言葉も耳に入らず、「練習しても私は上手になれん。私には才能がないのに、先生が勝手にピアニカになんかするけんよ、もうやりたくない」と半ば投げやりだった。すると、数日後、保健室の先生がアリマ先生にそのことを伝えたのか、突然「あなた、もうピアニカはいいから、きょうからこれをやりなさい」とシンバルを渡された。「シンバル!めっちゃ簡単やん!!!ジャーンて鳴らすだけ!おさるでもできるやつ~」などと気楽に構え、気分は一転した。シンバルの出番はたった3回。ジャン、ジャン、ジャーン…やれる!と。
ところが、である。シンバルはまちがうとそれはもうめちゃくちゃ目立つのである。音は大きいし、タイミングがずれたら演奏そのものを台無しにしてしまうし、大惨事である。出番がないときに鳴らそうものなら、目立って目立ってしかたがない。「シンバル!!ちがーーーーう!!」と先生のげきもドカーンと飛んでくる。ピアニカ以上に先生に怒られるではないか。ひえ~!!おそろしい楽器である。私のシンバル一つでそれまでうまく演奏していた同級生たちの演奏を止めてしまうわ、また最初から全員で演奏をし直さねばならないわ、どえらいことになってしまった。シンバルは全然簡単じゃなかった。ピアニカを投げ出したことを後悔した。しかし、演奏会の日は刻一刻と近づき、もう後に引けない現実に向き合うしかなかった。やるしかない。シンバルを担当して、私は全員の音を聞き逃すまいと音楽を必死で聞くようになった。一つ一つの楽器の音を聞いて合奏に本気で取り組むようになっていったのである。みんなの演奏を止めてしまう恐怖に立ち向かいながら、音を聞き、先生の指揮を一生懸命見た。練習では何度も厳しく先生に叱られたが、なんと本番はうまくいった。指揮する先生と目が合ったそのとき、先生は思いっきり笑顔だったし、私は自分の役目を果たせた安堵と満足感でいっぱいだったことを覚えている。
そんな先生とは、再会して以来何度も会う機会がある。松丸駅に併設している「ぽっぽ温泉」に通う同士なのである。示し合わせている訳でないが、私はおいっこと来ていることが多く、「あら、きょうも来てたのね」「先生もですね」と声を掛け合う。じっくり話すことはあまりないが顔を合わせてあいさつをするのがうれしい。今度会ったら、「いろいろ思い出してたら先生のおかげで、私小学6年生のとき以来、ちょこっと肝が据わった気がします」って話してみようかな。