2019.05.20 UP

「新幹線に夢を乗せた男たち(前)」

四国鉄道文化館で特別に展示された鉄道ホビートレイン(撮影・坪内政美)

予土線で人気の「鉄道ホビートレイン」は、初代新幹線ひかり「0系電車」がモデルになっている。東海道新幹線開業50周年と予土線全通40周年を記念してJR四国が製作したユニークなデザインが特徴で、新幹線のない四国において「日本一遅い新幹線」と、全国の鉄道ファンや地元の人たちに愛されている。

なにを隠そうこのモデルとなった初代新幹線「0系電車」の開発に携わったのが当時、国鉄総裁を務めていてた十河信二なのである。十河は、愛媛県出身でのちに「新幹線の生みの親」といわれ、いまも東京駅19番ホームには、その偉業を称えたレリーフがある。当時、大赤字の国鉄において、総工事費350億円を要するこの大事業は、多くの人が反対。だれもが実現不可能だと、逆風が吹き付ける中、十河をはじめとする一部の人間たちは、未来の鉄道に夢を抱き、その持てる技術とあふれる情熱を注ぎ、何度も試行錯誤を繰り返し、ついに昭和39年10月1日開業が実現したのだ。

 

一番列車新大阪~浜松付近まで運転された大石和太郎さん(撮影・坪内政美)

開業初日の一番列車「ひかり」を運転した2人の運転士は、大石和太郎さんと関亀夫さんだ。当時31歳という新進気鋭の若き運転士で、当時の世界最速といわれた新幹線の最高速度時速210キロに耐えられるか、まるで宇宙飛行士のような訓練までうけたという。新大阪―東京間を4時間で結ぶ「ひかり」には、開業に携わった同士らの夢が詰まっている。日本だけでなく世界が注目する夢の超特急に、大石さんと関さんはまるで彼らの夢とともに乗り込んだのだ。(当時新幹線の運転は2人体制でした。)

始めに運転したのは大石さん。胸を打たれたのは、京都駅を通過したときだったという。運転席から見えたのは、ヘルメット姿の工事作業員の人たちだった。真っ黒に汚れたままの手を大きく振ってホームで新幹線の到着を待ち構えていたのだ。「一番列車が来るっていうんでかけつけてくれたんだよ。一番これがうれしかった」と話す大石さん。開業に間に合わせようと夜を徹して作業していた現場の人たちの姿が今も忘れられないという。

そして、新幹線の車内では、食堂車がざわついていた。関さんは、車掌から電話を受け取った。「どうにかしてくんないかなっていうんだよ。210キロ出してくんないかな」と。食堂車には大きな速度計があり、乗客は世界最速の時速210キロの瞬間を見届けようと、速度計の前で今か今かと待ち構えているのだという。しかし、開業前日に運転士2人に告げられた指令は、「本日の最高時速は160キロで行け」というものだった。上層部は、210キロでの安全は確保していたものの、初日だけは慎重を期してほしいというのだ。大石さんと関さんは、これまで何度も繰り返してきた試運転の経験をもとに、滋賀県大津市を抜けたあたりから一気に加速。ついに速度計は210キロに達した。食堂車には歓声が響き渡り、車掌は思わず運転席にそのようすを伝えに来たという。

 

一番列車浜松付近~東京まで運転された関 亀夫さん(撮影・坪内政美)

その結果、品川を過ぎてまもなく東京に到着する頃、大石さんと関さんは時間調整のため、速度を時速30キロまで落とし、ゆっくりゆっくりと超特急を終着駅に進めていた。すると、沿線には新幹線を一目見ようと多くの人たちが手を振ったり旗を振ったりしている様子が見えてきたという。関さんは、「感動でしたよ。家の庭から日の丸を振っている人もいたし、デパートの窓から手を振っている人もいたし」と振り返る。東京が近づくと、山手線や東北京浜線が併走しているため、なんと新幹線が在来線に追い抜かれてしまったのだ。大石さんは、「あれはね、もうパレードみたいなものですよ。在来線の乗客もさ、新幹線を追い抜いちゃったって喜んでるし、ゆっくりいきゃあいいじゃないの」と笑う。「ひかり」一番列車は、時間ぴったりに東京に到着したのだ。

大石さんも関さんも今年で86歳。新幹線に乗せた多くの人の夢を話してくれる貴重な存在だ。お二人ともとてもお元気で、快く取材にも対応していただいた。そして、3月には、十河信二ゆかりの西条市にある四国鉄道文化館でトークショーを行ったのだが、そのお話しは、次回に続く。

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