- 2019.10.08 UP
「いとしのファンキーばあちゃん」
予土線を語るとき、高校時代の通学の思い出がアレヨコレヨとよみがえってくるのだが、朝の通学時は何かとにぎやかなことが多く、(コラムの第1回にも書いたように)駅から学校にたどり着くまでぎゃーぎゃーわーわーしていた。
その中でも、うちのばあちゃんはひときわにぎやかな存在だった。ばあちゃんちは、宇和島駅からおよそ400メートルのところで、じいちゃんと一緒に理容美容の品物を販売する商店を経営していた。じいちゃんとばあちゃんは、40代から始めた商売を80歳を越えるまで続けていて、じいちゃんもばあちゃんも、とにかく元気ではつらつとしていた。じいちゃんは、主に車での配達をしていたが、ばあちゃんも負けじと原付バイクで小回りのきく配達をこなしていた。
このばあちゃん、まずは見た目がにぎやかなのだ。私から見てもファンキーな出で立ちだった。頭は茶髪のくるくるパーマ、派手な柄の洋服をしれっと着こなしている。「年をとったら明るい色の服を着んといかん」というモットーで、宇和島の某デパート(※しんばし)でよくハイカラな服を買っていた。昭和一桁生まれにしては大柄な方で、背もわたし(153センチ)より頭一つ分高い。(もっと言えば、ばあちゃんのお古のズボンはわたしには長すぎる)。背骨もまっすぐいつもしゃきっとしているし、これで原付バイクにまたがるのだから、ヘルメットをかぶっていたところで、70に近いばあちゃんが乗っているとはだれも思うまい。
ある朝、わたしはいつものように近永駅から宇和島駅に予土線で通学していたときのこと。今もそうだが、予土線通学のほとんどの高校生は、宇和島駅から高校まで自転車を使っている。そのため、駅から少し離れた場所に自転車置き場がある。ここまで、駅からは予土線通学の学生がぞろぞろと歩いて行くのだ。と、そこへ!バリバリとエンジン音を鳴らして近づいて来る原付バイクが一台。「おーい、あやこーーー、はしーーー」と叫んでいる。わたしはぎょっとして目をやると、うちのばあちゃんである。自転車のそばにバイクを乗り付け、ヘルメットを外し、いざクルクル茶髪パーマのおでましだ。「あやこ、きょうの弁当の箸や。お母さんが入れるの忘れとるゆうて電話があったけん、ばあちゃんが持ってきてやったぞ」とこうである。しかも、そこらへんに聞こえるような大きな声で。
その娘である、わが母は、ばあちゃんと違っておっとりとした性格で、毎朝お弁当を作ってくれていたのだが、よく箸を入れ忘れていた。この日母は箸のことに気付いて、列車の到着時間に合わせて、わたしに渡してほしいと列車が着く前に先回りしてばあちゃんに頼んだのだろう。しかし、目立つぜ、ばあちゃん。そこにいた3両編成の予土線に乗ってきた田舎のおぼこい高校生の視線はばあちゃんに集まった。そして、箸だけわたしに手渡すと、ばあちゃんはヘルメットをかぶり直し、「はりきって学校いってこいよ」とにっこり笑って、エンジンを吹かして颯爽と去って行った。わたしがその日無事に箸で弁当を食べることができたのは、ひとえにばあちゃんが駆けつけてくれたおかげだが、こんなことは一度や二度ではなかったから、ばあちゃんは、すっかり同級生たちの知るところとなっていた。
そのばあちゃんも、ことし89歳。原付バイクはとうに卒業したものの、勢いだけは健在である。訪ねていくと、いつだって近所のおばちゃんたちと大きな声で世間話に花が咲いているわ、買い物に連れて行くと、どこにあったのそんな服?と言わんばかりの派手やかな服は買うわ、未だにわたしが食べたいと言えば、卵4個を使って甘い卵焼きを作ってくれるわ、その生き様はファンキーなままだ。若いときからよく笑っていたから顔はしわくちゃのばあちゃんだけど、死ぬまでファンキーなばあちゃんでいてほしいと思う。わたしとばあちゃんは、ときおりいっしょに温泉に出かけたりしているが、その道中では予土線通学のにぎやかな朝の一コマを時々思い出して、2人でよく笑っている。