- 2020.06.01 UP
“白い貴婦人”を設計した宇和島人
宇和島駅から1000キロほど先に「日光駅」がある。JR東日本日光線の終着駅で、宇和島駅からだと、特急と新幹線を乗り継いでおよそ9時間半の鉄道旅になる。遠く離れた日光駅が、宇和島と深い関わりがあることを今回ぜひともご紹介したい。
栃木県日光にあるJR日光駅舎は気品あふれる木造建築で訪れる観光客も多い(撮影・坪内政美)
日光駅は、洋風木造の駅舎で、その優美なたたずまいから“白い貴婦人”とも呼ばれている。日光には、明治から昭和初期にかけて、天皇御用邸のほか諸外国の大使館別荘が多くあったことから、当時の日本国において国際色豊かな格式の高い玄関口であったにちがいない。100年余り前からその姿を今に残すその駅舎は、降り立った瞬間にタイムスリップしたかのような気分になるほど。コンコースにあるノスタルジックな階段を上ると、2階は大正ロマンあふれるホワイトルームが残っていて、白い壁に大きな窓。天井には、当時のものといわれるゴージャスなシャンデリア。旧国鉄時代に一等旅客専用の特別待合室として利用されていた。ここで多くのセレブたちがひとときの会話を楽しんでいたりしたのだろうか。思わずクルクルパーマにふりふりのドレス姿で、ポマード姿の紳士に手を引かれて踊ってしまうご婦人の姿を想像したりなんかして・・。さらに、ホームから直結している「貴賓室」まであって、大正天皇のために用意された部屋には、装飾を施した暖炉も用意されていたのだというのだ。(「貴賓室」は現在非公開)。まさに大正ロマンそのもの!!この駅舎を設計した人物こそ、1人の若き宇和島の青年だったのだ。その事実が判明したのは、わずか10年ほど前のこと。明石虎雄という人物が、生涯でたった一つ手がけた駅舎が日光駅だったのである。
唯一残っている明石虎雄さんの写真は貴重
思い立つなり、私は夜行列車に飛び乗って一路日光へ向かった。早朝に到着した日光駅は、外国からの観光客でにぎわっていた。わくわくうきうきしながら降りたってすぐに駅舎をくまなく歩き回った。ホームを降りると「貴賓室」の文字、2階に上がる木造の階段、ホワイトルーム、すべて写真で見たままの駅舎に心がときめいた。そして、何よりその美しい外観を直に目にした瞬間、すっかり心を奪われた。貴婦人の異名を持つそのロマンチックな駅舎を眺めていると、まるで虎雄さん本人に出会ったかのような気分になって感動した。はるか郷里を離れ上京し、虎雄青年が手がけた渾身の設計の駅だと思うと、なんだかもう熱くこみ上げてくるのだ。明治、大正と日本が国際化しつつある日本において、この駅はどれだけの人びとを迎え入れ、送り出したのだろう。またもや想像が膨らみ、思わず感傷的になってしまう。さらには「こんなに美しい駅が日本にあるなんて知らなかった」とつぶやく外国人観光客までそこにいて、ちょっと自慢げな気持ちになって涙がちょちょぎれそうになった。
『明石虎雄が日光駅の設計士である』という事実を解明したのは、日光の近代史を研究している福田和美さんだった。駅舎が近代化産業遺産に登録される際に、市の職員として調査していたところ、当時の建築に関わる人物が記された「棟札」が屋根裏から見つかったのだ。その棟札には「鉄道院技手 明石虎夫」の文字。ただそれだけでは、この技手が何をしたのかはわからないままだった。ところがある日、福田さんは、研究していた建築雑誌の中にこの名前を見つけたという。「一字違うものの『明石虎雄君の死を悼む』という訃報記事があった。そこには主な仕事として『日光停車場』、それの設計監督と書いてある。日光停車場というのは、今の日光駅のことだから、それを設計監督したというのはこれではっきり確認できた」と。福田さんの情熱的な研究姿勢に、郷土を愛する心と郷土に残る歴史的建築物への愛を感じずにはいられなかった。
現在も宇和島市内に残る明石虎雄氏設計の小児科医院
記念はがきも大切に保存。当時は路線電車も運行されていた。
虎雄は、わずか36歳の若さで亡くなっていた。訃報記事によると、中学を卒業後上京し、東京高等工業学校で建築を学び、鉄道院に入り、技手となった。「当時わずか23歳だった1人の青年が日光駅を設計するというのは、よっぽどのことだ。学校での成績が抜群に良かったのではないか」と福田さんは推測している。虎雄は、日光駅を設計してまもなく、27歳のとき、実家の工務店を引き継ぐため、ふるさと宇和島に戻っている。宇和島市内にも、虎雄が手がけた建物が多くあったのだが、残念ながら今残っているのは、市内の小児科医院のみである。私も幼い頃にお世話になった医院である。思いがけず、不思議な縁だ。
日光を訪れたあと、私は幸いにも虎雄のご家族にお会いすることができた。虎雄の弟の孫にあたる彰さんだ。彰さんによると、虎雄は日光から宇和島に戻ってきたときに、大量の“はがき”を持ち帰っていたのだという。当時の日光では、数多くの建築物や観光地の写真がはがきに印刷され、観光みやげとして流通していたのだ。虎雄は日光で集めたいろいろなはがきを持ち帰ったのだが、中でもひときわ多かったのは、自身が設計した日光駅のはがきだった。そのはがきだけ、束になるほどあったのだという。そのはがきを彰さんは大切に保存していた。「この絵はがきだけはようけ(たくさん)ありましたね。うれしかったんじゃないですか。虎雄さんにとっては、光栄なことだったんじゃないですかね。こうやって物が残るというのが、物を作る人にとっては最高の幸せじゃないかなと思います」と彰さんは話してくれた。さらに、虎雄が学生時代に書いたというネオ・ルネサンスのハーフティンバー様式の設計図も見せていただいた。その設計図を見て、私はまたも胸が熱くなった。まるで、日光駅を思わせるようなヨーロッパ建築のデザインばかりで、西洋建築の美しさにのめり込んだ虎雄の情熱が映しとられているかのようだったからだ。熱心に建築を学び、その学んだ技術で設計した駅舎が完成したとき、虎雄青年の思いは相当なものだったのではないだろうか。そして、それが時を経て今日までそこにある。旅好きの彰さんも、いつか実物を目にしたいと思いを馳せていた。私もまた虎雄が結んだ縁を感じながら、日光を訪れたいと強く思っている。そして、願わくば郷土宇和島の人びとにも、日光駅を一目見てもらいたいと願う。